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お坊さんがお話しする ちょっとためになるはなし(1ページ目)

護摩木の功徳


 護摩(ごま)は、物を焼くという意味の言葉で、「護摩祈願」とは、ご本尊さまの前に護摩壇を置き、灯明(智恵の光)よりの火をもって真ん中の炉の中に護摩木と呼ばれる薪を焚き、その火によって私たちの煩悩を焼きつくし、清らかな心になることで、ご本尊様に除災招福、開運厄徐の成就を祈願する秘法です。

 護摩木には三種類あり、このうち一番太い檀木(だんぎ)というものを井形に積み上げていきます。檀木は炎を焚くための一番重要なものであるとともに、仏様へのお供えともなります。この一本一本にお名前とお願い事を皆様ご自身でお書きいただき、奉納されたものが当山の護摩祈願に使われます。つまり皆様のお気持ちが込められた炎が焚かれ、ご本尊様に願いを届ける訳です。

錫杖(しゃくじょう)の功徳


修行大師像(当山)
 
比丘(びく)十八物(※1)の一つで、修行僧が野山を巡業する時、猛禽や毒虫などの害から逃れるため、これをゆすって音を立てながら歩いた。錫杖は常に浄手(右手)に持ち不浄手(左手)に持つことを禁止されている。街に入ってからは、家々の門前にて乞食(こつじき)するときにこれをゆすって来意を知らせた。この歩きながら使うものを錫杖、また法要中に法具として使う短いものを手錫杖といい、その音色により『錫(すず)』の字があてられた。
 巡錫に用いられる錫杖は、ほぼ等身で、杖頭部・木柄部・石突の部分に分かれる。杖頭部は仏像や五輪塔を安置し大環に小環を6個あるいは12個付ける。法要で用いる錫杖は、柄を短くしたものであるが、杖頭部が三股九環・四股十二環のものもある。当山では、錫杖は修行大師像に見られ、手錫杖は護摩祈願の中で使われている。
 錫杖は『錫杖経』に説かれるように厄災や魔を祓う法具である。仏像に於いては、千手観音・不空羂索観音・地蔵菩薩の持物として錫杖を見ることができる。また総本山長谷寺の本尊十一面観世音菩薩様の右手に錫杖が握られており、衆生救済の色を濃くしている。通常十一面観音様の右手は垂下(すいげ)して数珠を持つだけであることから、本山の観音様は長谷型観音と呼ばれている。
 
錫杖経に曰く
『當願衆生(とうがんしゅじょう) 十方一切(じっぽういっさい) 地獄餓鬼畜生(じごくがきちくしょう) 八難之處(はつなんししょ) 受苦衆生(じゅくしゅじょう) 聞錫杖聲(もんしゃくじょうしょう) 
速得解脱(そくとくげだつ) 惑癡二障(わくちじしょう) 百八煩悩(ひゃくはちぼんのう) 發菩提心(ほつぼだいしん) 具修萬行(ぐしゅうまんぎょう) 速證菩提(そくしょうぼだい)』
 

「十方世界 地獄界 餓鬼界 畜生界 八難の世界で苦を受ける衆生は 錫杖の音を聞いたならば 速やかに惑障(わくしょう)(※2)癡障(ちしょう)(※3)百八の煩悩から解き放たれて 菩提心(※4)を発(おこ)し あらゆる功徳を積む修行を行って速やかに悟りを得られますように 衆生のために願います」
 
錫杖は、その清らかな錫の音であらゆる衆生の厄災を祓い、悟りへと導きます。
合掌.
 
 
※1 比丘十八物 昔、大乗仏教の修行僧が常に身に着けていた十八種の品
※2 惑障  人を惑わすあらゆる状況
※3 癡障  悟りに対する無知の心
※4 菩提心 悟りを求める心
 

こころの灯(ともしび)

 新春を寿(ことほ)ぎ、お大師様のご宝前に萬福とご隆盛をご祈願申し上げます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 さて『献灯 献花 献香』と申しまして、仏様にお供えする主なものに灯明、お花、お香の三種があります。このうち仏様と切っても切れない一番大事なものが灯明です。お寺のご本堂に限らず、ご仏壇にも必ず灯明が灯されます。
 灯明すなわち明かりは、闇を明るく照らしだす唯一の要素であり、また仏の世界も光り輝く素晴らしい世界であると説かれています。人の心は無明煩悩の闇に覆われやすく、これを打破するには仏の光明が頼りとなります。灯明は光明となり仏の智恵となります。この灯明を心の中に灯(とも)し続けることが出来れば、迷いの世界と無縁になり、密厳浄土(悟りの世界)の住人になれるのです。
 では、どうすればこの光明を自身に備えることができるのか?それは、仏様と向き合うことで可能となります。ご仏壇やお寺の本堂において仏様と向き合い、灯明の灯(ともしび)を頂戴し、それを心に灯して下さい。そして自分自身の心の中に仏様を念じ、自分自身も仏様であると感じてください。その時あなたは、仏様に守られながら共に生きることが出来るのです。

合掌

灑水加持(しゃすいかじ)と稚児加持(ちごかじ)



当山では、毎日の護摩修行の中でご参列の皆様に『灑水加持』という儀式を執り行っております。これは皆様の心と体を清める大切な作法であります。詳しくお話ししますと、人は生まれながらにして仏の資質(仏性)を持っているのですが、日々の生活の中で知らず知らずのうちに穢れて曇ってしまうことがあります。この穢れを仏様の智慧によって加持された清浄な水(加持水)をもって灑(そそ)ぐことによって再び仏性を呼び起こすのです。そのことによって皆様は清らかになり、さらに清らかな心で念じる皆様方の願いは、必ず仏様に、ご本尊様に通じるものです。
また七五三の時期になりますと、お子様を一人一人お加持する『稚児加持』という儀式が行われます。これは金剛誓水という仏様の香水(こうずい)をお一人お一人の頭頂に灌(そそ)ぐこと(灌頂)によって、仏の智恵を授けるというものです。このことによって、清浄無垢な子達は、お大師様のように賢く健やかに育っていくわけです。

(稚児加持は10月21日より11月21日までになります)

合掌

花まつり

お釈迦様(本名ゴータマ・シッタールタ)は、紀元前463年頃、古代インドの北部シャーキャ族の王子として、4月8日この世に誕生されました。
誕生地は、生母マーヤーの里帰りの途中にあるルンビニーという花園で、出産の瞬間、地上の花はいっせいに咲き乱れ、天(龍の口)から甘露の水が灌がれ、五色の蓮片が舞い、妙なる調べが流れたといいます。
また、お釈迦様は、出生後直ちに立ち上がり、東西南北の四方に七歩ずつ進み、右手人差指を天に向け「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と述べたと伝えられております。この句は、「ただ自分だけが最も尊い」という傲慢な言葉ではなく、「この世に授かったこの命こそが限りなく尊い」という意味です。
お釈迦様の誕生をお祝いする法会を、小さな誕生仏に甘露水(江戸期より甘茶が一般的)を灌ぐことから灌仏会と称し、この世に降って誕生したことから降誕会ともいい、誕生仏を安置する御堂に花をたくさん飾って荘厳することから、別名「花まつり」と申しております。
日本では古来より、子供が誕生仏に甘茶を灌ぐと、聡明にして健やかに育つとされ、子供が参加する仏事として宗派を問わず多くの寺院で催されております。

合掌


 

恭寿新春

ご存じのとおり当山の御本尊様は、弘法大師空海様です。約1200年前、唐の国に渡り密教という新しい仏教の教えを日本にもたらし、真言宗をお開きなられた方です。お大師様の教えは、すべての人がこの身このまま仏となって、いまの世界を仏の世界(密厳浄土)にしていきましょうというものです。日々の生活の中で仏のように考え、仏のように話し、仏のように行動することが大事であると説いておられます。
お大師様は、常に私どもにお救いの御心「慈光(じこう)」を遍(あまね)く照らされておられますので、いつでもお大師様の存在を感じる心をお持ちください。そしてお大師様を心に念じながら合掌して『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』をお唱えすることにより、本来自身に備わっている穢(けが)れのない清浄なる心の鍵が開き、御仏に包まれ抱かれている境地と共に、どんな場面でも常に仏様と共に歩んでいるという安らぎと喜びを実感できると思います。
お大師様の御宝前に皆様方の万福とご隆盛をご祈願申し上げ、ご挨拶といたします。

合掌

信心について

弘法大師は「信心とは決定堅固にして退失なからんと欲(ねが)うがための故にこの心を発す。これに十種あり。云々」と申され、信心について十の意義を示されております。

〈信心の十義〉
1、澄浄 (ちょうじょう)…心が澄んで清らかである。
2、決定 (けつじょう)……確信を持つ。
3、歓喜 (かんぎ)…………うれいや悩みが無くなる。
4、無厭 (むえん)…………なまけ心を断つ。
5、随喜 (ずいき)…………他人の勝行と同じ心を起こす。
6、尊重 (そんちょう)……他人の徳を軽視しない。
7、随順 (ずいじゅん)……見聞きする所に逆らわない。
8、讃歎 (さんたん)………他の勝行を称賛する。
9、不壊 (ふえ)……………心が不動である。
10、愛楽 (あいぎょう)……慈悲の心が生まれる。

総じて信心とは、心が清らかになり、自己を見失うことがなく安心と無上なる喜びを得、また、他人に対しては尊重と感謝の思いが生じて、苦しみを抜き楽を与え得る仏教の第一義であります。
人は深層にある執着心や欲により過信・迷信・妄信などが生じ、日頃から誤った行動、偏った道に入りやすいものですが、「信」を訓読すれば「マコト」と読みます。それは、人の言葉の本質は、実は、嘘や偽りがないということから、真実という意味として使われます。
常に私達は正しい言動に留意し、信用・信頼といった「マコト」のつながりを保ち、互い同士が、また全体が信じ合うことが最も肝要なことであり、それが信仰の道であり仏の道なのであります。

合 掌
西 新 井 大 師

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